78年は、新井素子が本格的に活躍を開始した年です。
右の写真は、この年に発売された新井素子の最初の単行本です。
新井素子の登場と、その受け入れられ方というのは、現在から振り返ってみると時代の節目となる大きな事件でした。
当時の私はそんなことを思いもせずに、無邪気に同世代作家の書いた小説を読んで喜んでいましたが、今にして思うと、ここでもはっきりと何かが変わっていたのです。
新井素子はSF専門誌「奇想天外」の新人賞で佳作をとり、78年2月号でデビューしました。この号が発売されたのは77年12月のクリスマス頃だったと思いますから、デビューは正確には77年ということになります。同時に佳作をとってデビューした5人の中には山本弘などもいます。
この時にSFファンの間で話題になったのは、同じ号に掲載された選考座談会の内容でした。選考委員は星新一、小松左京、筒井康隆という当時のSF界御三家で、最終選考に残った14作品について3人が議論をたたかわせている様子が収録されています。そこでは、新井素子に関する評価がはっきりと割れていました。激賞する星新一と、否定的な2人の食い違いぶりが、鮮明になっていたのです。以下に引用します。
小松 「あたしの中の……」これは16歳の少女でしたね。
星 これは、驚いたの一言につきたな、ぼくは。
小松 そうかねえ、ぼくはあんまり感心しなかったけど。
星 違った世代が、ついに出現したという感じを受けましたね。テンポというものがあるんだ。いままでの小説の中にない新しさというとテンポだろうと思うんだ。
筒井 それならば、むしろ「カッチン」の方がいいですね。「あたしの中の……」の場合は、話がよく出来ててかわいらしいんだけども、女性の饒舌体とか、マンガの吹き出し的なセリフが生かされてないんですよ。もっともっと生かせたと思う。欠点がちょっと目につき過ぎる。
星 ぼくはこれがいちばん欠点が少なかった。ちゃんと伏線があり、ユーモアがあり、サスペンスありで、構成に破綻がないよ。
(中略)
小松 (略)たとえば、地の文の中に「……ちゃった」というようなことを書かれると、ぼくはもうやたらに抵抗がある。
星 いまのああいう世代の女の子は、こういう文章を書くということで、ぼくは納得しているんだけど。
筒井 ただ、そういった文章が出てくるのはいいことなのか、それとも悪いことなんですか。
星 もはやいい悪いじゃないと思うよ。世の中がこうなっちまったんだ。
小松 そうでもないよ。ちゃんとした文章もあるぜ。
筒井 そうなっても星さんは困らないんですか。つまり、SFがそういう作者の出やすいところでしょう。われわれが踏んばらなきゃいけないんじゃないかという気がするんだけど。地の文まで崩したのを許していいのかどうか。
(中略)
筒井 ほんとにこのままでいいと思いますか。これを入選させて、このままの調子であちこちからの作品依頼に応じさせてもいいと、ほんとに思う?
星 そりゃ、いいと思うな。SFと劇画で育った世代の象徴とみていいんじゃないかな。ぼくは、これによって人生観が変わった。生じっかの社会体験ならむしろない方がいいらしい。
筒井 それをいうなら、「カッチン」の方ですよ。
星 いやいや、ぼくがいちばん感心したのは、ストーリイ作りがうまい。これだけのストーリイは、いまのSF作家にも書けないんじゃないか? これはやはり一種の特異な才能ではなかろうかと。突っつきようがないんだもの、ほかの作品のようにここがおかしいじゃないかというところがない……。「カッチン」の場合は、コンピューターによりかかっている点が新鮮なので、ストーリイは単純なんだ。これはそういうものによりかからずにストーリイそのもので勝負している。とにかく、ストーリイに関しては珍しいぐらい巧妙でうまいなァ。
小松 ただねえ、最初の設定にドラマが踊らされているというところがある……。
星 それはまあ御都合主義といえなくもないけど、御都合主義もここまで徹底すりゃいいんじゃない。
筒井 ワァー、スゴいほれこみようだなァ、どうも(笑)
星 推理小説だってそうでしょう。
筒井 小説はみんなそうじゃないですか。御都合主義というとすれば。
小松 いかに御都合主義を御都合主義にみせないかというところに腕のみせどころがあるんじゃないかと思うんだけど、この文体ではどうも。
筒井 ストーリイはたしかにいいけど、文章をもうちょっとどうにかしないと困りますよ。
星 いやァ、この文章がいいよ。……(笑)
筒井 文章が幼くてかわいらしいのを、星さんは、「文章がいい」と勘違いしているんでしょ(笑)とにかく星さんがあれだけ推しているんだから、残しておきましょう。
小松 おれたち追い上げられているんだな、こういうのをみると痛感するよ(笑)
(中略/以下は最終選考の場面)
小松 でも「あたしの中……」を一位に推すにはちょっと選者として恥ずかしいよ。「高校SFコンテスト」ならともかく(笑)
星 それ以外のを選ぶのはもっと恥ずかしいよ。
小松 うーん……それなら、入選作ナシということになるか。
星 それでもいい。いずれにせよ「あたしの中の……」を、わたしが強く推したことを記録に留めてくれれば。
(中略)
星 (略)とにかくクドイようだけど、「あたしの中の……」に出会った時は、とてもぼくなんかには書けない、違った世代の登場で引退せざるを得ないなと、ほんとに思ったよ。
筒井 そこまでホレ込むと……どうする小松さん、入れちゃう?(笑)
小松 佳作ならともかく、入選にするのはどうしても……。
星 いいよいいよ。この作品がいずれ雑誌に掲載されて、ぼくが強力に支持したということを読者がわかってくれるなら文句はいわない。
筒井 読者に判断をまかせなきゃ仕方ないな。
星 これからはもう、こういうのしか出てこないんじゃないかなァ。
小松 ぼくはそうは考えない。むしろ、非常にしっかりした文章が書けるひとが沢山出てくると思う。
筒井 新しい文章は必ず出てくるけど、これではないよ。たとえばこの人が、四十、五十のオバハンになって、まだこんな文章を書いていたらどうする? 気味ワルイですよ。
小松 ジャレている文章なんだよ、つまり。
星 そのへんを考えなおし初めてきたんだ。
筒井 麻薬みたいなもんですな。
星 ぼくなんかには、とてもそういう表現は出来ない。
筒井 あたりまえですよ(笑)。星さんがこんなの書き始めたら、気が狂ったかと思われる(笑)
(「奇想天外」1978年2月号より引用)
さて、その新井素子が「四十、五十のオバハン」になったのが現代のわれわれの世界です。結果的には、そんなこと気味悪いとは感じない世界になったようです。
今回問題にしようと思った要素は、ほとんどこの座談会の中で洗い出されているようなものですから、ちょっと長めに引用してしまいました。これを読むと、小松左京と筒井康隆がえらく保守的に見えますが、当時としてはあたりまえと言っていい反応だと思います。むしろ、星新一の柔軟さが過激なまでに突出しているのです。
新井素子をめぐる問題については、近年「サブ・カルチャー文学論」(文学界/大塚英志)の連載で1回をさいて取り上げられていました。この評論文は、おたく史を考察する時にかなり重要になる指摘を含んでいます。「「ルパン三世」的リアリズムとキャラクターとしての〈私〉――’80年代小説としての新井素子」というタイトルからもわかるように、小説における「私」という問題に「キャラクター」という(おたく史考察において重要な)要素をからめて論じており、文学史の中に新井素子を位置づけるという大胆な試みをしていました。
私は大塚さんとは時々いっしょに仕事したりしますから、こういうところでこの人の文章を持ち上げたりすると、知り合い同士でだらしなく馴れ合っているみたいで嫌ですから、できたら批判しておきたいのですが(笑)、新井素子評価に新しい切り口を与えたという点では、この評論文は大変意義があると思います。
「サブ・カルチャー文学論」は、石原慎太郎論をめぐる編集部との衝突で中断され、その後単行本にもなっていませんので、現在読むことはできません。ぜひ早いうちに単行本化してほしいと思います。
この「サブ・カルチャー文学論」で論じられている問題点も含め、「新井素子の中に読み取るべき時代の変化」という視点は、かなり多くの問題を明らかにするだろうと思います。
そして、それと同時に今さらのようにわき起こる疑問は、「なぜ星新一だけが、あの時、新井素子の中の何かを見抜くことができたのか?」ということです。世間の相場からすると十分以上に柔軟性のある思考をしていたはずの他のSF作家でさえ保守的に見えてしまうほどの、星新一の発言の突出のしかた。「ぼくは、これによって人生観が変わった」「違った世代の登場で引退せざるを得ないなと、ほんとに思ったよ」とまで言ってしまう星新一という存在が、新たな問題としてそこに浮かび上がってきます。
日本のSF界を長くリードしてきたのは星新一でした。80年代にいたるまで、多くの中高校生の基本講読図書として人気トップにあった星新一というものが、後に「おたく系」となる人々に潜在的に与えていた影響力は、計り知れないものがあります。にもかかわらず、これまで「星新一」という問題を正面から論じた文章にはお目にかかったことがありません。それは、星新一があまりにもわかりやすいものに見え、思春期とともに卒業するものとして了解され、忘却されてきたからです。
1978年論ノート05 (via petapeta)
(via mitaimon)
900日を越える学生運動のあいだに警察側と全共闘学生側の両方から失望され軽蔑されたのが大学教師たちだった。
日本の研究者・学者達の人格の低劣さは大学を占拠してバリケードをつくって立てこもっていた学生側と、そのバリケードを破壊して死者・負傷者を出しながら、なぜか最後まで銃器を使わずに放水と微弱(CN)催涙ガス、大楯と警棒に頼っていっせい検挙をめざした警察側双方の無数の証言がある。
ついこのあいだまで防犯パトロールの警官が構内に立ち入っただけで「学園の自治を冒すものだ」と述べていた同じ大学人が自分達が学生に胸ぐらをつかまれる事態になると掌を返したように「この度警視庁のきついお達しにより、大学構内は立ち入り禁止とします」という看板を構内に立てて「警察側の」抗議によって看板を撤去せざるをえなくなったり、安田講堂ではカメラを持って集まり学生が巨大な体格の機動隊員に組み敷かれて血を流しながら連行されるのをみて拍手喝采して写真に撮り、あまつさえ「やっちまえ」「ざまーみろ」というような野次をとばして機動隊員たちの顰蹙を買ったりした。
上智大学では機動隊に両側から腕を取られた女の学生を後ろから蹴った大学教師兼業神父もいたそうで、機動隊員もびっくりしていたそうだが、目撃した一般学生のひとりであったおばちゃんは「わたし、あれでカトリックやめたんだもの」と教えてくれた。
173時間に渡ってただひとり学生達に軟禁されながら学生達のやっていることを民主主義のルールから外れ、礼儀にも悖ることだとして一歩も譲らず、逆に全共闘学生達から尊敬をうけ、警察が苦労して手渡した救出手順をしるした秘密のメモに「わたしの救出は必要ない。ただいま学生達を教育中」と返事を書いて警察人を感動させた林健太郎文学部教授をほとんどゆいいつの例外として、あるいは権力にこびへつらい、あるいは「大学を出ていない機動隊員」が大学構内にはいることに不快を示して、ある種の大学人はおもうぞんぶんアカデミックの世界に生きる人間の低劣な本性をさらけだして日本国中の軽蔑をかったものだった。
書き連ねても気分が悪くような醜態ばかりなので、ここではこの辺でやめておくがインターネット上に情報が少なく忘れ去られているだけでいろいろな形で活字にも残っていることなので「出典キボンヌ病」のひとたちも、一般の人間にアクセス可能な資料ばかりなのだから、怠け者の夜郎自大を捨てて、自分の力で本にあたってみれば、警察側と学生側の両方から炙り出しのように当時の「学者」たちの目を覆うばかりの人格崩壊者ぶりを目の当たりに出来ると思う。
裸の王様 | ガメ・オベールの日本語練習帳v_大庭亀夫の休日 (via odakin)
(via mitaimon)
「あたりまえ」を「ありがとう」と言うのが感謝
「だから、なに?」を「おめでとう」と言うのが賞賛
「もう、ダメだ」を「これからだ」と言うのが希望
「なりたいな」を「なってやる」と言うのが決意
「もういいや」を「まだ待とう」と言うのが忍耐
言葉だけでも認識は変わる
"2chコピペ保存道場 : 言葉だけでも認識は変わる (via dc-ep)
(via motomocomo)
「物語」の感想としては大いに問題ありではないかと思います。いや、そもそも「物語」として読めていないことが問題かと思います。そしていい大人がそういうことを肯定するのもどうかと思います。
さまざまな視点から多様な意見が出てくることは良いことですが、評価されるべき異論というのは当たり前の模範解答のさらに先の高みに到達できているものであって、根本から曲がっているものは論外だと感じます。
"「一般的に裁判所は、被疑者が起訴されて犯罪捜査が終わっているにもかかわらず、身柄拘束を認めています。日本の裁判実務では、保釈するかどうかの判断にあたって、犯行を認めていない場合は、認めている場合よりも被告にとって不利に扱う。これは明らかに犯行を認めさせる方向に事態を誘引しようとする考え方であり、身の潔白を主張する意欲を削ごうとする無力化効果を狙ったものです。
保釈されないということは、裁判が終わるまで身柄を拘束されっぱなしということです。そのため、日本の刑事司法は『人質司法』と言われています。こういう陰険とも姑息とも言うべき裁判実務は、いい加減やめなければならない時期に来ているのではないか」
"このポケットの数は、公開時期にあまり左右されていません。それよりも、その利用者にとって、ピュアな情報として、どれだけ重要かということにかかっていると想像できます。
ツイート数やはてブと相関しない理由がここに
たとえば「読書が好き」という。
すると「年間何冊読んでるの?」と聞かれる。
「読むの遅いから月3冊で…まあ40冊いかないくらいかなあ」と答える。
次に来るのは「えっ、そんな少ないのに読書好きって言えるの?」
以下
「好きな作家は?」
「えーと、伊坂幸太郎とか、村上春樹かなあ」
「えっ、そんなメジャーなのしか読んでないのに読書好きって言えるの!」
「じゃあさ、伊坂幸太郎の経歴でさ、こうこうこういうのあるじゃない?あと交友関係が〜で…」
「あ、ごめん、作者のことはよくわからない。既刊は全部読んでるけど…」
「えっ、作者の周辺情報も知らないで読書好きって言えるの!」
自分は「読書が好き」としか言ってない。
本を読むのが好き。
でも「そんなので読書が好きって言えるの?」っていうのは、どういうことなんだろう。
好きというのに資格がいるんだろうか。
読書にかぎらず、漫画でも、アニメでも、ゲームでも。詳しくないと好きと言っちゃいけないんだろうか。
Twitter / tarareba722 (via shinoddddd)
(via tamkai88)
ほんと可愛い。これ見るために生きてるなとすら思う。 今まで大事だと思ってたこと、例えば社会で成功することとか、うっすらとモテ続けることとか、大切な友だちと素敵な時間を過ごすこととか、お金持ちになることとか、自分の夢を実現することとか、そういうの全部、子供の可愛さと子育ての大変さの前には霞む。 人生の優先順位ががらりとかわる。
子供がこれだけ可愛いのも、親であるこちらと接してくれるのも、時期としてはそれほど長くないというしね。
だから、自分の体力、集中力、気力、精神力、筋力、そういったものが70%くらい家庭に注がれてしまう。 その分仕事はできなくなる。勤務時間も短くなるし、情報収集力も減るし、判断力も鋭さが減るし、発想力も限定される。 いつも疲れ気味だからなんとなく覇気がなくなる。もめ事は家の中だけでたくさんだからできるだけ事なかれ主義に陥る。
そういう人を会社で見て「こいつはダメになった」と思うかもしれないけど、それは違う。 その人は今、その人の人生のクライマックスを、全力味わっているのです。応援したいものです。
わかってほしいと自分ではいわないけど、わかりますw
最後だとわかっていたなら (via itokonnyaku)
(via tanakamp)
Twitter / @ナカアキコ (via minepom)
(via mitaimon)
そんなのどうでもいいよ、世界が明確なピラミッド構造をしている、これだけでもう、めまいがするほど退屈だ、ヒエラルキーの固定がいちばん退屈だ、そいつは物語の敵だ。
Yes. Yes. A hundred times Yes.